1月19日(日)となってしまいました。日々の出来事は大小とりまぜて、生きているかぎりだれでも甘いも辛いも、うれしいも悲しいも、なんらかの喜怒哀楽を味わっているので、何にも書かないのは生きていないと同じことじゃないかと、言われればそうかもしれない。ぽかんと心に穴があいた日々でした。
やっぱり少しだけでも、二番目の姉のことを書いておかねば、と考えていました。およそ10年まえのことでした。
2015年10月に4人姉妹が集まって、第二回目の姉妹会をやりました。一回目はその4年前で、ゴンタの住むC村に4人が集まり、イングランド各地を観光して回ったり、ロングボートに乗ったり、観劇、美術館、その他の思い出深い日々を過ごしたのですが、4年後の二回目はアメリカ、カリフォルニアに住む次姉のところでした。
これ ↓ は最後の日、2015年10月31日とアルバムには出ています。今は亡き義兄(次姉の夫)が朝空港に出発前に撮ってくれました。あの頃、ブログはせっせと書いていたのですが、ちょっと差しさわりがあり非公開にしている記事もかなりありました。そのうちに整理または公開に変えなくっちゃ・・・。

C村を出発したのは10月23日のことでした。ああ、この姉妹会のことを書き始めたら、相当長ったらしい物語になってしまいそう。一日ずつ書いても1週間分。写真を載せたら、とても1週間では終わらない…
あの時、最初にロスアンジェルスの空港で、次姉夫婦が日本から来た二人(姉、妹)とイギリスから行った私を出迎えてくれて、小さな行き違いもあり、到着時間から 全員が顔を合わせることができたのは4,5時間後のことでしたけど、とにかくLAの空港で4+1人が無事再会を果たせて喜んでいた、 あの時。すでに次姉の「それ」は 始まっていたのでした。
行き会ってものの4,5分も経たないうちに、彼女が何度も同じ言葉を繰り返したので、え、え、え?と思ったのは私だけじゃなかったのでした。「疲れたでしょ」とか、「大変だったでしょ」とかいうねぎらいの言葉だったのですが、やっぱり何度も言い過ぎるのでちょっとおかしいな、と思いました。姉の家に行き、義兄に話すと、「やっぱりそう思ったのか」と。すでに認知症テストなどを受けていたようでした。アルツハイマーという病名はその時だったか、あとからだったか、とにかく4人の姉妹会は毎日楽しく進行していきました。
いろいろなところに連れ出してもらって、3,4日後、義兄や姪たちのお世話になってばかりじゃなくて、4人で旅をしなくっちゃ、と言い出したのは長姉。どこに行けるかと考えてから、4人はアムトラックという列車に乗ってサン・ディエゴに一泊泊まりで行くことにしたのでした。
これ ↓ はサンディエゴのホテルに着いたとき、ロビーで撮ったもの。

これもサン・ディエゴの見晴らしのいい観光地で撮りました。 ↓

4人の足(靴)と手。これは第一回目の姉妹会の時もやりました。
どれが誰の手かって?
みんな節くれだって、ごつい手でした。
でも、こんなことができたのは、4人の気持ちがそろったからで、
そのこと自体が楽しい瞬間なのでした。
この一週間、時々おしゃべりが繰り返されること以外姉(次姉)は普通でした。ただサンディエゴの駅に着いてまず4人でお昼を食べたとき、そこのカフェみたいな場所に入ったのですが、アナハイムから持ってきた和菓子の入った大きな紙袋を置いてきてしまったことに気づいて、次姉はとても悔しがっていました。
次は4年後、2019年、日本でまた姉妹会をしようね、と言って、
ロスアンジェルスの空港でお別れしました。長姉と妹は日本へ、
私はアンカレッジ経由でイギリスへの一人旅でした。
あの時アンカレッジの空港で時間待ちをしていた時、
度数の合ういい眼鏡を探していて、見つけて買ったものは
中国製でしたが、いまでも壊れずに使っているものです。
別れしに、義兄(アメリカ人)が、シーちゃん(次姉)のことは大丈夫、
自分がかならず最後まで面倒を見るからと、かなりはっきりと
決意表明をしてくれたので、とても気強いことでした。
でもそれから、2年、3年たつうちに、もう3回目の姉妹会は無理だろうと
本人からも言われてしまいました。
これ ↓ は姉妹会の翌年、2016年9月17日のことでした。10年前。
次姉は3人の娘がいて、真ん中のシャロンが
この日、サンディエゴで結婚式を挙げたのでした。
姉はこれで3人の娘が無事かたづいてくれた(!?)と思って
「ほっとした」と言っていたと、このブログのその日の記事に書いてありました。
小夏さんと marri さんからもコメントをいただいていましたよ。
今から10年前といえば、72歳の時。
娘の結婚式の時の嬉しそうな写真を姪がフェイスブックにアップしてくれました。 ↓
1944年5月6日生まれ、2026年1月9日永眠
4人の中で一番幸せな家庭を築いた人でした。でも、
アメリカ人に嫁いでしまった姉には、やっぱりほかの人が知らない
苦労もいっぱいあったのかもしれません。
涙と笑いの物語を時間があるときに紡いでみようかと
思ったりしています。