2012年 03月 31日
ポカポカ陽気の週末お出かけ、その2(クレイドンハウス)
週末のぽかぽか陽気の土曜日のお出かけ。この時期に水洗の花を載せないわけにはいきません。下四枚の写真は、前の記事の続きで、ワデスドン・マナー・ハウスで撮ったものです。
水仙は球根で生きている多年草の草花ですよね。今の紅茶国は、さながら「水仙国」です。道路わきのどこにでも群落して顔を出し、春を謳歌しています。上のようなワデスドンの敷地内であれ、ほんとうに名もない路傍のわき道であれ、黄色い水仙はとても、目立ちます。車を運転しながらも、ちょっとルンルン気分にさせてくれます。
そして、下の2枚は、ワデスドンマナーハウスの庭園にあった彫像の一部。
見る眼を持った人が見れば、どういう作りの何を意味したものか、とか分かるのでしょうけれど、素人目にはさっぱり。汚れているのも、半分壊れかけのもありましたけど、いずれにせよ、贅を尽くして、美を堪能するために庭のあちらこちらに彫刻をおいたのでしょう、きっと。ちょっと、ふだん載せたことのない写真を、面白半分に載せてみました。歴史的ないわれなど、いっさい分からず、説明できなくてすみませんが。
クレイドン・ハウス
ワデスドンマナーハウスから およそ15キロほど離れたところにある、このクレイドンハウス。 ← 公式のウエブサイトを見たい方はどうぞ左をクリック。
ヴァー二ー家(代々、男爵=バロンの称号を使ってきた家系)が550年にわたって住んできたお邸だそうです。初代のヴァー二ー男爵は、1640年代、イギリスの名誉革命(シビルウォー)のとき、チャールズ一世の旗持ち(Standard Bearer)だったそうです。この内乱で死亡して、身体はばらばらとなり、指輪を証拠とする片腕だけが見つかったので、お屋敷内に教会を建てて(下から2枚目の写真)弔われたとか。
建物の中の家具や絵画はほとんど借り物なので、撮影禁止だといわれて、あまり、撮影できませんでした。
その昔には、あまりにも豪華な大邸宅だったのでしょうが、時代の趨勢に生き残り続けることはむずかしかったのでしょう。贅沢をしすぎると借金もかさみ、結局今残っているのは最盛時の三分の一程度らしいです。壁も、ドアも、床も、天井も、どれもこれも、贅を凝らしたつくりになっていました。
でもって、このお屋敷が有名なのは、もう一つ、かのフロレンス・ナイチンゲールのお姉さんが嫁いできた家、ということなのでした。お姉さんのフランシス・ペルセポネ(パーシフォン)のお相手は最初の妻に死なれた第二代男爵サーハリー・ヴァー二ー
フロレンス・ナイチンゲールについては こちら。(←は ウイキペディアの英語版ですが、左側の日本語というところをクリックすると、ナイチンゲールの日本語の説明を読むことができます。)
上の写真は、たびたびお姉さんの嫁ぎ先の、このクレイドンハウスに長逗留していたというフロレンス・ナイチンゲールの使っていた部屋の窓から外を撮ったものです。残念ながら部屋の中を撮ることができなかったので。
大勢の召使いにかしづかれて、何不自由なく暮らせるはずのナイチンゲールやそのお姉さん夫婦が、議会に働きかけて、クリミア戦争で負傷した人を助けることに一生懸命予算をとるべく頑張ったそうです。
フロレンス・ナイチンゲールという女性は、近代看護学を確立(?)して、看護婦さんたちの鏡、モデルみたいにおもわれがちですが、実際には、もっとずっと政治的、社会的な活動にも力を注いだファイター、活動家だったのですね。医療活動をしっかりと記録、分析して、医療(?)統計学の元祖となったり、病院設計面でもりっぱな業績を残したり、いろんな意味で功績の大きい女性だったのでした。(1899年、イギリス短期留学中の津田梅子さんがナイチンゲールに面会し、花をもらい、それを押し花にしたとか、そのエピソードを聞いてから、なんとなくナイチンゲールという人が無縁の人ではなくなったような気がして、興味深くこの建物を見学できたのでした。)
上の写真は、メインの建物の外側、昔は馬小屋か、物置だったのか、知れませんが今はちょっとしたティールームや、おみやげ売り場になっていました。そのほかにも別の建物は結婚式場とか、レストランとか。
ワデスドンマナーハウスもクレイドンハウスも、貴族、大富豪の歴史的な大邸宅ですが、今は「ナショナルトラスト」という団体の管轄下、共同経営する名所観光地となっています。(だから入場料が高い。)そうしないと、どちらの大御殿の持ち主達も、税金、諸経費、その他で、とうてい「やっていけない」から。こんな大屋敷、どうやって維持するか。とてもじゃないけど、やっていけないみたいです。
水仙は球根で生きている多年草の草花ですよね。今の紅茶国は、さながら「水仙国」です。道路わきのどこにでも群落して顔を出し、春を謳歌しています。上のようなワデスドンの敷地内であれ、ほんとうに名もない路傍のわき道であれ、黄色い水仙はとても、目立ちます。車を運転しながらも、ちょっとルンルン気分にさせてくれます。
そして、下の2枚は、ワデスドンマナーハウスの庭園にあった彫像の一部。
見る眼を持った人が見れば、どういう作りの何を意味したものか、とか分かるのでしょうけれど、素人目にはさっぱり。汚れているのも、半分壊れかけのもありましたけど、いずれにせよ、贅を尽くして、美を堪能するために庭のあちらこちらに彫刻をおいたのでしょう、きっと。ちょっと、ふだん載せたことのない写真を、面白半分に載せてみました。歴史的ないわれなど、いっさい分からず、説明できなくてすみませんが。
クレイドン・ハウス
ワデスドンマナーハウスから およそ15キロほど離れたところにある、このクレイドンハウス。 ← 公式のウエブサイトを見たい方はどうぞ左をクリック。
ヴァー二ー家(代々、男爵=バロンの称号を使ってきた家系)が550年にわたって住んできたお邸だそうです。初代のヴァー二ー男爵は、1640年代、イギリスの名誉革命(シビルウォー)のとき、チャールズ一世の旗持ち(Standard Bearer)だったそうです。この内乱で死亡して、身体はばらばらとなり、指輪を証拠とする片腕だけが見つかったので、お屋敷内に教会を建てて(下から2枚目の写真)弔われたとか。
建物の中の家具や絵画はほとんど借り物なので、撮影禁止だといわれて、あまり、撮影できませんでした。
その昔には、あまりにも豪華な大邸宅だったのでしょうが、時代の趨勢に生き残り続けることはむずかしかったのでしょう。贅沢をしすぎると借金もかさみ、結局今残っているのは最盛時の三分の一程度らしいです。壁も、ドアも、床も、天井も、どれもこれも、贅を凝らしたつくりになっていました。
でもって、このお屋敷が有名なのは、もう一つ、かのフロレンス・ナイチンゲールのお姉さんが嫁いできた家、ということなのでした。お姉さんのフランシス・ペルセポネ(パーシフォン)のお相手は最初の妻に死なれた第二代男爵サーハリー・ヴァー二ー
フロレンス・ナイチンゲールについては こちら。(←は ウイキペディアの英語版ですが、左側の日本語というところをクリックすると、ナイチンゲールの日本語の説明を読むことができます。)
上の写真は、たびたびお姉さんの嫁ぎ先の、このクレイドンハウスに長逗留していたというフロレンス・ナイチンゲールの使っていた部屋の窓から外を撮ったものです。残念ながら部屋の中を撮ることができなかったので。
大勢の召使いにかしづかれて、何不自由なく暮らせるはずのナイチンゲールやそのお姉さん夫婦が、議会に働きかけて、クリミア戦争で負傷した人を助けることに一生懸命予算をとるべく頑張ったそうです。
フロレンス・ナイチンゲールという女性は、近代看護学を確立(?)して、看護婦さんたちの鏡、モデルみたいにおもわれがちですが、実際には、もっとずっと政治的、社会的な活動にも力を注いだファイター、活動家だったのですね。医療活動をしっかりと記録、分析して、医療(?)統計学の元祖となったり、病院設計面でもりっぱな業績を残したり、いろんな意味で功績の大きい女性だったのでした。(1899年、イギリス短期留学中の津田梅子さんがナイチンゲールに面会し、花をもらい、それを押し花にしたとか、そのエピソードを聞いてから、なんとなくナイチンゲールという人が無縁の人ではなくなったような気がして、興味深くこの建物を見学できたのでした。)
上の写真は、メインの建物の外側、昔は馬小屋か、物置だったのか、知れませんが今はちょっとしたティールームや、おみやげ売り場になっていました。そのほかにも別の建物は結婚式場とか、レストランとか。
ワデスドンマナーハウスもクレイドンハウスも、貴族、大富豪の歴史的な大邸宅ですが、今は「ナショナルトラスト」という団体の管轄下、共同経営する名所観光地となっています。(だから入場料が高い。)そうしないと、どちらの大御殿の持ち主達も、税金、諸経費、その他で、とうてい「やっていけない」から。こんな大屋敷、どうやって維持するか。とてもじゃないけど、やっていけないみたいです。
by agsmatters05
| 2012-03-31 07:58
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