2010年 12月 27日
ナボコフの現実(訂正、追加しました。)
・・・・Strong Opinions に収められたあるインタヴューの中で、現実という言葉についてナボコフは次のような意見を表明している。
「現実とはきわめて主観的なものだ。私には、一種の段階的な情報蓄積か、または特殊化だとしか定義できない。たとえば、どんな自然界の対象物でもいいのだが、仮に百合を考えることにすると、百合は普通の人間よりも博物学者が見る方が現実的に見える。しかしそれよりも植物学者が見る方がさらに現実的である。そしてさらにまた、百合の専門家である植物学者が見ると、別の段階の現実に達する。こうしていわゆる現実に次第に近づくことはできるのだが、終わりに達することはない。なぜなら、現実とは無限に続く段階であり、認識水準の層であり、幾重にもなる二重底であって、それゆえ消滅することもなく、到達することもできないからだ。」
戻ってきました。
私は上のナボコフの文章が、好きで好きでたまらないと思うのですが、実は上の文章には首をかしげたくなるところ、ちょっと矛盾しているところもあると思います。
「仮に百合を考えることにすると、百合は普通の人間よりも博物学者が見る方が現実的に見える。しかしそれよりも植物学者が見る方がさらに現実的である。そしてさらにまた、百合の専門家である植物学者が見ると、別の段階の現実に達する。」
とナボコフがいうとき、この「現実的」という言葉は何を意味しているのか、と言いたくなりませんか。
普通の人間が見る百合と、博物学者、植物学者、そして、とりわけ百合の専門家である植物学者が見る百合と、どこがどう違うのか。一言でいえば「くわしさ」「細部」「詳細」を知っているかどうか、より多くのことが理解できているかどうかの違い、ということではないでしょうか。
百合の花の名前さえ知らない人が見る百合の花という「現実」と、百合にくわしい学者が見る百合の花の「現実」との違いは、「段階の違い」「認識水準の違い」「理解の深まりの違い」であって、現実というものがそもそも「一種の段階的な情報蓄積か、または特殊化」、「無限に続く段階であり、認識水準の層であり、幾重にもなる二重底」ならば、表面的なものは現実ではないのか、名前を知らずに百合の花を見ていたら、それは現実を見ていることにならないのか、と。
ところが、「消滅することもなく、到達することもできない」となると、これはまたちょっと事態がちがってくるでしょうか。
つかみどころがあるような、ないようなもの、それが現実だということなのでしょう。

Come Fly With Me?
[23:24:55] : http://www.youtube.com/watch?v=LM9icaYuZzo
[23:25:19] : http://www.youtube.com/watch?v=-9IdOAQU-wQ
http://www.youtube.com/watch?v=sV7SqlbeFj8


