カテゴリ:本を読んで( 24 )

暮れから正月にかけてずっとこういう(↓)本を読んでました。
スエーデン発のミステリー。
大学時代の友人に「読め!」と言われて、「ミレニアム」に続いて、メグから送ってもらった文庫本。3冊送ってもらったうちの2冊。あとの一冊を読む前に、ちょっと別のミステリーに横滑りしているところです。

こおりひめ
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何しろ、翻訳本なので、読みにくかったよ、YOSHIKOさん。それに2-3ページでどんどん別の話に移るの。場面と登場人物が、誰のことを言ってるのか、わかるまでにとっても時間がかかるの。面白くなった!と思ったら、また別の話に移ってしまう。それに翻訳文の堅さ、え?この段落は誰のことを言ってるの?と思ったことが何度も。だって、主語がなかなか出てこないんだもの。

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そうはいっても、完読したよ。ミステリーだから、最後はちゃんと事件の解決をしてくれて、読み終えた時は一応納得。感動するというのではなくて、よくもこれだけ上手に複雑に、登場人物と筋書きをからませて、つじつまの合うお話を書いたものよ、と思った。その点では合格。

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だけどあえてもう一言。「ミレニアム」は違うのよね。あれは、涙が出てくるほど、悪いやつを憎らしく思い、被害者を助けたく思い、弱くても悪に立ち向かう罪のない者を(本から離れていても)応援している気持ちになってしまった本だった。ミレニアムを読んでいた間はもう、ああミカエル!ああリスベット!と心の中で叫び続けていた私でした。ほんとよ、YOSHIKOさん。

でも、このあと、日本のミステリーを読んでから、またレックバリの三冊目に戻るからね。なにしろ日本から送ってもらった本は片っ端からていねいに読了したいと思っているものですから。
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by agsmatters05 | 2017-01-09 11:45 | 本を読んで | Trackback | Comments(4)

ミレニアム4(上・下)

11月25日に読み終わった本。印象が強すぎて、少し間(ま)をおいてから書くつもりでした。

そもそも最初にこの本(ミレニアム)について聞いたのは、2010年10月10日のことでした。

ここにちょっと書いたことによると、今から6年前のこの日、母校の同窓会(卒業後40年記念)に出て、国分寺で2次会をしたあと、お茶の水まで帰る中央線の電車の中で、隣に座ったよっこさんが「必ず読むように」と命令(指示)してくれた本がこれでした。スティーグ・ラーソンによる「ミレニアム」3巻6冊(それぞれ上下ある)。

このブログの記事管理画面で「ミレニアム」と検索したら、その翌年(2011年10月2,5,16日)に3回にわたって、この記事を書いていたことがわかりました。(もうすっかり忘れてましたけど、、笑)

1、2011年 10月 02日  9月のまとめ、その四 「ミレニアム」その一発端
2、2011年 10月 05日  9月のまとめ、「ミレニアム」その二
3、2011年 10月 16日 9月のまとめ、「ミレニアム」その三

そうして、ミレニアムのこともガブリエルソンのことも、かなり記憶に薄れ掛けてきた5年後、四女のよっちゃんからの贈り物の中にこれ(↓)が入っていたのでした。
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作者は亡くなってるのに、なんで続編が出るの?と思ったまま、すぐに読み始められなかったんです。そして、今年、今回、(やっぱり教職を公式にはリタイアしたことが直接の影響だとおもう)、サンディエゴ以来、読む本にはまる生活がなぜかリセットされて、その勢いでこの本がついにここに登場できることになりました。(よっちゃん、ありがとうね。)

「蜘蛛の巣を払う女」ダヴィッド・ラーゲルクランツ
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結論、よく書けてる! 同じ作者が書いたかのように楽しめる。もしくは、別の作者(ダヴィッド・ラーゲルクランツ)が書いたって、全然大丈夫。とにかく同じように楽しめる。そして、受け入れられる!

「楽しめる」というのは、ちょっと誤解があるかもしれません。この本、ミステリーで、サスペンスもたっぷり。

ずいぶん怖い思いもしましたし、はらはらドキドキ、苦しみさえ味わいました。楽しむというよりは、金縛りにあったような気分に襲われて、普通だったら本から目を離せなくて止められない、というところをあまりの衝撃力でもう読み進められないよ、と何度思ったことか。そういう本でした。

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映画化も進んでいるらしく、評判も上々とのこと。

あまりネタバレしないように書かなければとおもいますが、なんでこの本が好きかというとやっぱり「勧善懲悪」のところ。巨悪と戦うところ。そして弱者、虐げられた人への救いがあるところです。悪い人を小気味よくやっつけてくれるところ。とはいってもそんなにおとぎ話のように単純ではないので、簡単には喜べない話なのですが。

とにかく、読み終わりました。一か所、引用しておきますね。とてもうまく書かれているとおもったところ。

こんなに若くて、目がくらむほど美しいのだから、仕事に疲れて汗ばんだ中年ジャーナリストを追いまわすよりも、ほかにすることがあるだろうに。それだけではない。彼女のまなざし、恥じらったり大胆になったりする態度、偶然を装って手に触れてきたこと。はじめは抗いがたいほど魅力的に見えたすべてが、だんだん計算ずくに思えてきた。(P.140,4 下)


この女性、リスベットの妹は、前三部作には大きく描かれていなかった人物。この女性、ある名をサノス、またの名をカミラ、リスベットと対照的な、あまりにも対照的な人物。

最後の章(第三十章)、

次こそは、姉さん、次こそは!
 という携帯電話のメッセージが三度届いているが、単なるミスなのか、わざと強調しようというくだらない試みなのかは判断がつかない。いずれにせよ、それはどうでもいいことだ。


リスベットとカミラの対決は、次号に持ち越されました。
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by agsmatters05 | 2016-12-05 10:45 | 本を読んで | Trackback | Comments(0)

HBS と言えば?

知る人ぞ知る、という呼び名なのでしょうね。
ハーバード・ビジネス・スクールの略語だそうです。

IOE と言っても、 AGS と言っても、関係する人達以外は何の略語なのかさっぱり?ということはよくありますものね。

山崎繭加著「ハーバードはなぜ日本の東北で学ぶのか」(ダイヤモンド社)
ー世界トップのビジネススクールが伝えたいビジネスの本質ーという副題がついています。

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どうしてこの本を?

これはサンディエゴまでメグが持ってきてくれたものでした。メグのこともちょっと載ってるって。通訳のお手伝いをしたときのことが実名で書かれていました。

ビジネス (business)
グーグル辞書ではこんな風に出てきました。 ⇒ MOREに載せておきます。

世界のトップをゆくビジネス・スクールが、東北での現地学習のプログラムを5年も6年も続けてきたのだそうです。その「おぜん立て」をすべてこなされた著者が、このプログラムの意義、価値、記録をていねいに書いておられる本です。

ビジネスって、私の辞書にはない言葉で、私は自慢じゃないけど、お金に縁のないニンゲンだと頭から決めてかかってるキライがあります。こまったもんです。

だけど、なんだかこの本を読んでいたら、むらむらと紅茶国の南の海岸でおにぎりや(←ここで書いた)を始めてみようか、という気がつのってしまいました。お米10キロ買ってきて、5合炊きの炊飯器で炊いた白ごはんでおにぎりが何個作れるか。ただの白米のおむすびよりも、すし飯にしたほうが売れるかしらん?いくつ作っていくらで売れば赤字にならないでやっていけるのかしらん?手初めに、一度作って街中で売ってみようかしらん?

もの思う秋ですねえ。(笑)

ビジネス(business) の意味
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by agsmatters05 | 2016-11-17 10:41 | 本を読んで | Trackback | Comments(6)
これ(↓)は長姉から。なぜこれを、というようなことはさっぱりわからないのですが、姉には姉なりの理由があって、読む必要(価値)のない本など、ゆずってくれるわけもないので、ありがたく読ませてもらいました。

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芥川賞候補に5回あげられて、落選を続けた北海道出身の作家で、90年、41歳で「自ら死を選ぶ」と、本のカバーの内側に書かれていました。1949年生まれ。生きることと書くことを重ね合わせて、身を削るようにして書き続け、疲労困憊してしまわれた感じ。最近(死後20年以上経って)再評価され、映画やテレビ番組などに取り扱われているとのこと。そんな話題性から、この本を(姉が)選んでくれたのかもしれない。

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第一部 そこのみにて光輝く
第二部 滴る陽のしずくにも

タイトルが希望や救いを暗示してくれているのに、作品の中にはあまり希望や救いが見えない。重く、暗く、ともすればどんどん深い暗闇に巻き込まれてしまいそうな印象。大きな悲劇には到らず、日常が壊されそうで壊されていないまま作品が終わる。やっぱり、このあやうさを抱えこんで創作活動(執筆)を続けることが、息切れ(生き急ぎ)と結びついたのではなかったか。
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by agsmatters05 | 2016-11-07 07:36 | 本を読んで | Trackback | Comments(0)
これは姉からじゃなくて、メグ(娘、仮名)に頼んで、サンディエゴまで持ってきてもらいました。いつも芥川賞が発表になるたびに、ニュースなどでほんのすこし作品について知ることしかできず、実際の作品を読むためにはやっぱりどうしてもこれ(↓)ですよね。

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とても面白く読めました。上手に書いてるなあとも思いました。「虚実皮膜」という言葉について考えさせられました。作者の実話のような、そうでないような、上手にそれが練りこんであるという感じでした。そして何度も「吹き出し笑い、クスクス笑い」をさせられた作品でした。

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あえて、一か所、印象に残っているところを引用させてもらおうとおもいます。作品のはじめのほうで、主人公の私はちょっと変わった(奇妙がられる)子供だった、そうです。

小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。
『誰か先生呼んできて!』
『誰か止めて!』
悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った。
周囲は絶叫に包まれ、男子は頭を押さえてその場にすっ転んだ。頭を押さえたまま動きが止ったのを見て、もう一人の男子の活動も止めようと思い、そちらにもスコップを振り上げると、
『恵子ちゃん、やめて!やめて!』
と女の子たちが泣きながら叫んだ。
走ってきて、惨状を見た先生たちは仰天し、私に説明を求めた。
『止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました』
先生は戸惑った様子で、暴力は駄目だとしどろもどろになった。
『でも、止めろって皆が言ってたんです。私はああすれば山崎くんと青木くんの動きが止まると思っただけです』
先生が何を怒っているのかわからなかった私はそう丁寧に説明し、職員会議になって母が呼ばれた。
なぜだか深刻な表情で、『すみません、すみません……』と先生に頭をさげている母を見て、自分のしたことはどうやらいけないことだったらしいと思ったが、それが何故なのかは、理解できなかった。


上を読んでいた時、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」とそっくりじゃないか、と思わずにはいられませんでした。

主人公はかなりの部分が作者の分身らしく思われるけれど、どこまで事実で、どこからがフィクションなのでしょう?おそらく100%の写実でないとしても、かなりリアルな感じの描写が続き、とても楽しませてもらいました。誇張も大ありで、喜劇として大成功。
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by agsmatters05 | 2016-11-06 09:43 | 本を読んで | Trackback | Comments(2)
これも読書好きの姉からの差し入れでした。

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これが本人の直接の執筆ということは、読んでいてすぐわかる。芸能人が誰かに代書してもらった本とはちょっと違って、しっかり書かれていると思った。けれども、楽しい話を面白おかしく書いた本ではないので、やはり読んでいて重苦しい雰囲気が終始漂う。安倍公房という有名な作家、(前衛)脚本家,演出家との隠された愛についての本。長いこと世の中に知られないように守り通してきた二人の関係についての話。

この本について、または山口果林についてグーグルすると、いっぱい出てくる写真やコメント。たとえば、
http://laughy.jp/1416890353672157158
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20131219/1387411969   (はてな)
http://ameblo.jp/takama0714/entry-11655090305.html  (アメブロ)
https://www.youtube.com/watch?v=7YirrwPEJwM   (ユーチューブ)
http://heiseiinnyokujiten.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
などなど、延々と続くのですが、ここでちょっと思いついてしまいました。

なにやらもらったものに返事をしないことを「ボブディランする」という若い人の言葉使いがあるらしいのですが、
これ式でいくと、長いこと隠してきた秘め事をオープンにすることを「山口果林する」と言える。

ご本人は、愚痴にならないように、自慢話にならないように気をつけて書いたとおっしゃってましたが、やっぱり、苦しみと楽しみの両方を(たぶんたっぷりと)味わわれた20年前のお二人とその家族たち:片方に偏る見方は第三者である限り、控えておくべきなのかも。

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読後感はとにかく一口で言うとしたら、「重い課題について書かれた本だ」というようなこと、でした。

姉が差し入れてくれる本はどれも読みごたえはあるのですが、あれこれバラバラなテーマなので、前に読んだ本と今度読む本とのつながりが全くない。あとまだ数冊手元にあって、読書続行中だけど、学校も始まってしまい、同じペースで読み続けるのはちょっと無理かもです。夜な夜なゲームをしなければもっと読書のための時間がとれるんだけど・・・(苦笑)。
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by agsmatters05 | 2016-11-03 10:20 | 本を読んで | Trackback | Comments(3)
9月のサンディエゴ行き。
姪の結婚式に日本の実家から甥が参列したのですが、彼が読書好きの長姉(甥の母親)から預かった何冊かの本を私に手渡してくれました。おかげでこの休み中に読むべき日本語の本がたくさんあって、忙しかった。(まだ全部読み切れてない。) その中の一冊。上のタイトルのような本。

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1941年生まれ、慶應義塾大学卒業、カトリック教徒、彫刻家舟越安武の長女、二度の結婚(夫は二人とも他界)、二人の息子の子育て。長男の病気、怪我。絵本の出版社の創設と閉鎖、皇后さまの本の出版、国際児童図書評議会(International Board on Books for Young People,通称 IBBY)の名誉会員、どの話題も大きな話題ながら、静かに回想しつつ、すばらしいこと、感謝すべきこと、誉めるべきことに徹して控えめに書き綴っている半生記。今は東北で被災地に絵本を届けるプロジェクトを主催中とのこと。

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ほんの表紙は、安野光雅さんの絵。

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今回は引用なしで、上のページをそのまま載せさせていただきました。お母様のご友人で、俳人の照井翠さんの句集『龍宮』より。
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by agsmatters05 | 2016-11-01 10:59 | 本を読んで | Trackback | Comments(0)
ブログとフェイスブックとツイッターで、ほとんど毎日のようにつながっている Kamitani Maki さんからの情報で、この本(↓)のことを知りました。

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田中真知さんが書いた『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社)という本がが第一回斎藤茂太賞の特別賞にえらばれたというニュースは、7月29日ごろのことでした。それを受けて、9月にサンディエゴでメグに会えるから、ということでさっそくメグに頼んで、待つこと数カ月。9月のサンいディエゴで受け取って、この休みに読み終わりました。

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賞をもらう本は、やはりそれだけの重みというか、読みごたえがあるとつくづく思いました。アフリカ、コンゴ、ザイール、まったく言葉で聞くだけ、単語だけの知識、いえ知識などとは言えない世界(場所)の話なのですが、楽しませてくれました。読んでよかった。

異文化に暮らす身にとって、理不尽なこと、不可解なこと、不信感や違和感は日常茶飯事。心の底からアットホームな気分でくつろげることが、どれほどあるだろうか。もっとも逆の意味でこの異文化生活空間が珍しくもあり、楽しくもあり、また感動や感謝をいっぱい与えてくれる面白さもあるから、まだ帰国しないでいるわけですが・・・・。

というわけで、 Kamitani Maki さん、ご紹介ありがとうございました。

以下、例によって、例のごとく、引用することで、私の興味・関心を強く引いた場所をメモっておこうとおもいます。長文なので、ご注意ください。でも、どれもいいこと言ってると思います。(注、ただしこの本の大部分は、この大河を下って旅した記録なので、下の引用箇所ばかりがこの本のメインの部分とは思われませんように。大変な旅だったのですが、カラーの動画などで、河の様子などを映したものを見せてもらえたら、その魅力が爆発したと思われてなりません。

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「ひとつ大きなハードルを越えた気がした。たかがイモムシなのだが、イモムシが象徴している壁のようなものを超えることができたと思うと少々達成感があった。すくなくとも、イモムシなんてとても食べられないという人に、これからはこういってやることができる。「あんなの、ただのイモムシですよ」(P.204)


「若者はコンゴに来る前は相当に神経質な性格だったという。はじめはシャワーが浴びられないだけで気持ち悪かった。でも、浴びなくてもなんとかなることがわかった。同様に、服をとりかえなくても、プライバシーがなくても、虫がいても、電気や水がなくても、ろくな食べ物がなくても、『私は悪い人です』と顔に書いてある人にからまれても、不条理や理不尽が束になって襲いかかってきても、なんとかなることもわかった。そういうことが際限なくくりかえされるうちに、こうでなくてはだめだ、という思いこみのハードルがどんどん低くなっていったのだろう。

タフであるとは肉体の強靭さとか不屈の意志ということとはあまり関係ない。むしろ、思いこみがはがれ落ちても、中身の自分が意外と大丈夫だと気づくことではないか。

自分だけがそうなのか、あるいはほかの人もそうなのかわからないが、日本にいると、とかく無力感にさらされる機会が多い。それは自分が本当に無力だからではなく、無力だと思いこまされる機会があまりに多いからのような気がする。世の中はありとあらゆる脅威に満ちていて、それに対して保険をかけたり、備えをしたり、あるいは強大なものに寄り添ったりしないことには生きていけない。そんな強迫観念を社会からつねに意識させられているうちに、自分は無力で、弱く、傷つきやすい存在だと思いこまされてしまうのだ。

でも、ここでは自分で何とかしないと、何も動かない。乏しい選択肢の中から、ベストとはほど遠い一つを選び、それを不完全な手段でなんとかする。状況がどんなに矛盾と不条理に満ちていても、それが現実である以上、葛藤なしに認めて取り組むしかない。そういうことをくりかえしていると、意外となんとかなったりするし、なんとかならなくても、まあ、しょうがないやという気になる。まあ、しょうがないやと思えることが、じつはタフということなのだと思う。」(P.250)

「月も星もない闇夜の下では、何の明かりもないほうが、かえってまわりがよく見えるのだ。計器灯のようなわずかな光であっても、それは闇を攪乱して見えないとkろをつくりだしてしまう。光をあてるのはむしろ危険なのだ。闇の微妙な陰影や遠近感を見分ける目が持てるなら、すべての明かりを落として、漆黒の闇のなかで目を凝らしたほうが、いろんなものがしっかり見えるのである。

光を当てると、闇はいっそう濃くなるーこれは少なからず衝撃的な体験だった。観念的にとらえるのもどうかと思うが、見えないからといって光を当てることで、かえって見えなくしてしまったものが、ぼくたちのまわりにどれだけあっただろう。

西洋では光は理性の象徴とされてきた。だが、その理性という光を当てたことによって、その光で説明できなかったものの多くを闇に葬ってきたのも、西洋とアフリカの交流史の一面だったのではないか。コンラッドはこの地を『闇の奥』と呼んだ。だが、闇の陰影を見分けられるような精妙なまなざしを持つ者にとっては闇は闇ではない。そんなことを考えさせられた夜のコンゴ河だった。」(P.276)

「世界は偶然と突然でできている。」(P.281)

「予定をたて、その予定通りに物事が進むことをよしとする考え方は当たり前のものと思われている。西洋の近代合理主義、あるいは近代科学がもたらした思惟方法だ。しかし、それには未来についての予測を可能にするための社会の安定が不可欠だ。

だが、ここでは未来に何が起きるか本当にわからない。ちょっと旅をするだけでも、思いもよらないことが次々と殺到してくる。ルワンダ虐殺のときのように、昨日までの隣人同士が今日は殺し合いをするといった極端なことばかりではなく、こうすればああなるだろうという単純な因果律さえ成り立たないことがあまりにも多い。予定や計画をつらぬこうとする意志の力よりも、おもいもよらない偶然や突然の出来事が起きても、それとなんとか折り合いをつけ、わたりあい、楽しんでしまう力こそがここで生きるうえでは不可欠なのだ。

いや、ここだけではない。じつは世界中どこだってそうなのだと思う。世界は偶然と突然でできている。アフリカだろうとアジアだろうと、世界のどこだろうと、人は偶然この世に生まれ、突然、死んでいく。生きるためにいちばん必要なのは、それらのどうしようもない偶然を否定したり、ねじ伏せたりする力ではなく、どのような偶然とも折り合いをつけていく力だ。」(P.282)

「いろんなことがめちゃくちゃだ。だれもが好き勝手に行動する。人の迷惑なんて考えない。でも、ほかの乗客はたいして気にしていない。さすがである。迷惑だと感じる人がいなければ迷惑はそんざいしないのだ。」(P.291)

「いずれにしても
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by agsmatters05 | 2016-10-31 11:04 | 本を読んで | Trackback | Comments(4)
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シマさんに贈っていただいた新潮文庫全6巻、ようやく読み終えました。

シマさんありがとうございました。ブリッジの本も少しずつ読んでいます。感謝。

何年前にいただいたか、記憶も薄れてしまいました。よく、ロンドンへ行くときなど、カバンの中に入れやすいので持ち歩いていました。でも、続けて一気に1から6まで読み通すまでに、今までかかってしまいました。

けっこう、若い人達の「旅ごころ」を駆り立てるような、ある種の旅の指南書みたいなものでしょうか。

最初に、漠然とした目的(デリーからロンドンまで乗り合いバスで行く)があって、友人たちと賭けをしたというのが発端で、何日、何週間、何か月間、何年間かかるかわからない旅。その「わからなさ」が6巻全編を貫いていて、だから次はどうなるの?という興味、好奇心、、疑問にかられて読み続けさせられた、ような気がする。その「さきゆきのわからなさ」はもうちょっとどうにかならないかとも思われた。実際はすべての旅を終えて、だいぶたってから過去にさかのぼって書いているのだから、整理すればどこに何日間いて、という表が出来上がっているはずなのだけど、著者は旅の時点にもどって書いてくれているので、スリルのようなものがたくさんあった。

誰でもできることじゃない。特に、女性、年寄りには無理だわと、ずっと思いながら、読みました。

以下、私の読後感想文はもっぱらここと思ったところを引用するのが常で、しかもそれだけ。
ちょっと長くなってしまうのですが、タイプ打ちしてみました。

長文の引用なので、飛ばし読みもOKですよ。お引きとめいたしません。時間のある方だけ、どうぞ。(笑)
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「急がなくてはならない。急がないと・・・・・・・やはり御馳走が逃げていってしまう。」(4、p.81)

「『食う』という意味は二重である。ひとつは、文字通り人から親切によって与えられる食物や情報が、旅をしていくために、だから異国で生きていくために必須だということ。もうひとつは、人々の親切が旅の目的そのものになっているということ。つまり私たちのようなその日ぐらしの旅人には、いつの間にか名所旧跡などどうでもよくなっている。体力や気力や金力がそこまで廻らなくなっていることもあるが、重要なことは一食にありつくこと、一晩過ごせるところをみつけること、でしかなくなってしまうのだ。しかし、そうではあっても、いやそうだからこそ、人が大事だと思うようになる。旅にとって大事なのは、名所でも旧跡でもなく、その土地で出会う人なのだ、と。そして、まさにその人と人との関わりの最も甘美な表出の仕方が親切という行為のはずなのだ。」(4、p.83)

「私にはひとつの恐れがあった。旅を続けていくにしたがって、それはしだいにおおきくなっていった。その恐れとは、言葉にすれば、自分はいま旅という長いトンネルに入ってしまっているのではないか、そしてそのトンネルをいつまでも切り抜けることができないのではないか、というものだった。数か月のつもりの旅の予定が、半年になり、一年にもなろうとしていた。あるいは二年になるのか、三年になるか、この先どれほどかかるか自分自身でもわからなくなっていた。やがて終わったとしても、旅という名のトンネルの向こうにあるものと、果たしてうまく折り合うことができるかどうか、自信がなかった。旅の日々の、ペルシャの秋の空のように透明で空虚な生活に比べれば、その向こうにあるものがはるかに真っ当なものであることはよくわかっていた。だが、私は、もう、それらのものと折り合うことが不可能になっているのではないだろうか。

膝の上の『ペルシャ逸話集』には、『四つの講和』と並んで『カーブース・ナーメ』が収められている。『カーブース・ナーメ』は王朝の滅亡を前にして、王が子に残した処世訓集ともいうべき書で、その中に『老齢と青春について』という章がある。いかに若くとも栄光ある神を忘れるな、死に対して安心するな、死は老若の区別をつけないからだ。そう語ったあとで、父は息子にこう言い残している。

若いうちは若者らしく、年をとったら年寄りらしくせよ。


この平凡で、力強い言葉の中に、あるいは『老い』の哲学の真理があるのかもしれなかった。少なくとも、『王のモスク』の老人たちは、その言葉のように老いていた。年をとったら年寄りらしく、年をとったら年寄りらしく・・・・・。
『カーブース・ナーメ』にこうも書いてある。

老いたら一つ場所に落ち着くように心掛けよ。老いて旅するは賢明でない。特に資力ない者にはそうである。老齢は敵であり、貧困もまた敵である。そこで二人の敵と旅するは賢くなかろう。


私は老人たちの荘厳な叫び声を聞きながら、ふと、老いてもなお旅という長いトンネルを抜け切れない自分の姿を、モスクの中を吹き抜ける蒼味を帯びたペルシャの風の中に見たような気がした。」(4, p.175,176)

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by agsmatters05 | 2016-10-30 08:47 | 本を読んで | Trackback | Comments(0)

米沢富美子さんの本

米沢冨美子さんについては  ここ で取り上げさせていただきました。

そして上の記事の最後に、ぜひこの本を読みたい、読まなければ、とも書きました。日付けは、去年の12月13日のこと。

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作品名ふたりで紡いだ物語
作者名米沢富美子
評価(星5つ)
これもメグがらみです。


もともとこの本を読め、読めと何度も勧めてくれたのは山梨の長姉。今では年に一回も会えなくなってしまったけど、会うたびごとに「あの本がいいよ、この本を読メシィ(!)」と言って紹介してくれる人。

去年の11月、毎年生徒らが書くクリスマスカードを沖縄の麗先生に送ったとき、物々交換の話がまとまって、紅茶国からは紅茶。そして沖縄からアマゾンドットコムで注文したこの本がついにC村に到着、というわけでした。もっとも、これはメグを日本に見送ったあとのことでしたけど。


それでもって、春休み中のいま、少しずつ少しずつ読みついで、ようやく今日読み終わりました。

apakaba さんのようにみごとな書評はとても書けそうもないので、いつものように一つ、二つ引用でごまかそうとおもうのですが、それはともかく、泣かせられましたねえ。涙、涙、涙。

旦那様が病院に入られたところ辺から、叙述が俄然クローズアップとなり、それまでの年単位、月単位の総論風のお話しではなく、日を追って時刻を追って、朝、昼、夜というぐあいにくわしくなり、お別れの場面もとても圧巻でした。でももっと泣かされたのは、そのあとの告別式での三つのスピーチでした。こんな風に涙を流しながら読んだのは久しぶりのことでした。

夫婦愛の物語は、SFやファンタジーなどよりもはるかにずっと、ふだんの私から遠くかけ離れたものだというプリオキュペーション(!?)があって、しかもこのIQ175の女性物理学者のクリアでハードな筆致から、まさかこういう話の展開になるなんて、と思ってもみなかったのですが・・・。江藤淳さんの「妻と私」以来の傑作でした。

引用箇所を探していると、あれも、これもトいっぱい引用したくなって困ってしまう。とりあえず、ほんの一部だけにしておきます。

「今夜から明朝にかけてが峠になります」
と主治医が言った。
「峠ってなんだ?峠ってなんだ?」
と私は心のなかで繰り返した。峠を越えれば元気になれるのか。何か施す手はないのか。

家族全員が見守る中、時計がまわって日が改まった。夫の六十歳の誕生日は、中華料理のバースデーパーティーもなしに過ぎていった。「卵スープ、シュウマイ、云々」と、夫が紙に書いたメニューが、そのまま私のハンドバッグに入っている。

(略)

一時が過ぎ、二時が過ぎた。私は、病室の窓から見える暗い空に目をやった。夫は遠いところに行ってしまうのだろうか。三十五年の日々のあれこれに思いを馳せた。夫に支えられてきた私の人生。

突然、私はこのまま夫を行かせてはならない、と思った。遅いかもしれないが、私の感謝の気持ちを伝えなければならない。私は夫の耳に口を寄せて、話しかけた。
「まあちゃん、ありがとう。たくさん、たくさん、ありがとう」
と言った。娘たちにもパパにありがとうと言ってあげて、と促した。長女は。
「いやだ。私はまだ、パパとお別れできない」
と泣いた。皆が交代で夫の手を握った。

私は夫に伝えておかなければならないことを、祈るような気持ちで話しかけた。どうかどうか、夫の耳に届いてほしい。

「これまでは、まあちゃんが支えてくれたから、今度は私がまあちゃんを支える番だよ。どーんと寄りかかってくれても、大丈夫だよ。
この先、何が起ころうとも、二人は永久に一緒だよ。
二人は出会えてよかったね」
そのとき、信じられないような奇跡が起こった。もう八時間以上も、呼びかけに応えなかった夫が、目を開いた。


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by agsmatters05 | 2013-04-07 08:29 | 本を読んで | Trackback | Comments(0)

紅茶国で日本語教師。でも、身の回りのいろんなことを気ままにつづっていきます。日本語教育のほかに、イギリス風景、たまには映画や料理や本やニュースや旅のことなど。


by dekobokoミチ